LIFE

森の国 Valleyの営み
2021.06.28

目黒らしさとは?Vol.2『暮らし、生業から紐解く』

#History&Culture#地域の暮らし#目黒の伝統

「地域らしさと言うのは、地元の人にとっては当たり前過ぎて気付きにくいんです」

そう語るのは、松野町教育委員会の亀澤一平さん(通称亀ちゃん)。彼は、松野町目黒の歴史や文化に魅了された自他ともに認める「目黒オタク」。

前回の記事では、「自然」と「歴史」の観点から目黒らしさを紐解いていったが、今回は「人々の暮らし、生業」にフォーカスしていきたい。

目黒のメインは田んぼ

5月ごろから夏にかけて、目黒ではみんなが田植えを始め、町が一気に緑に色づく。山に囲まれ、その中で一面に広がる田園風景は、まさに目黒らしい景色だ。

豊富な水に恵まれたこの地域は、滑床渓谷から流れる清流水を水田に引いて美味しいお米を作る。

目黒には、その川水を田に引くためのながーーい水路が通っている。

殿井手(とのいで)から取った水を田んぼに運ぶ、2.8キロメートルにも及ぶ水路は、目黒で一番長く県境まで続いている。

若山橋の上のあたりに殿井出(水路の入り口)がある。

「昔から目黒の住人たちは、この冷たい川水をどう温めて水田に使うかということに苦労してきました。」

水田の水が冷たいと稲が低温障害を引き起こし、育ちづらくなる。
田んぼの水の入り口の部分(水戸口)だけが冷えると収量が減ってしまうため、田んぼ内の水温を調整するために目黒の人々が編み出した方法が「ウラミゾ」というやり方だった。

田んぼの周りに溝を作り、ぐるっと周りを這わせてから水を田んぼに入れる。
そうすることで中の水温は上昇し安定する。

森林資源が豊富な目黒で栄えた林業

「農業は昔からこの地域の生業の中心でしたが、それを支えたのが林業でした」

滑床渓谷も含む目黒周辺の森は、重要な木材獲得の場であり、明治時代には国有林事業が開始された。
宇和海足摺国立公園として、1972年に国立公園に指定され、現在に至るまでその森の自然は保護されている。

こうした豊富な森林資源が目黒の人々のくらしに与えた影響はすごく大きかったのだと、亀ちゃんは語る。

「森林資源はものすごく豊富だったので、それを理由に多くの人が目黒に移住してきて、雇用が生まれ、賑わっていたんです」

「昔は『目黒銀座』と呼ばれ、食料品、雑貨、呉服屋、百貨店、酒屋、映画館、宿などたくさんの商店が並んでいました」

今『森とパン』がある通りは『目黒銀座』と呼ばれていた。

農業と林業の掛け合わせと、その結果生まれた多様な生業を柔軟に取り入れながら、人々は暮らしていたのだ。

目黒を目黒たらしめる

「目黒の地域ってとてもまとまりがありますよね。山に囲まれたという地理的な条件もあるかもしれないけど、地域のお祭りや行事が昔から毎年行われていて、それも地域のまとまりを作っている要因だと思います」と話す亀ちゃん。

目黒らしさとは、何か。

それは自然や歴史が重なってできた景色や環境、そして文化、人々の生活も全てが一体となって形成される。生業があってこそ、景観が守られていくのだと、彼は最後にまとめる。

「強い風や冷たい水といった地理的条件のもと、制約がある中で、人々の暮らしの知恵が編み出されます。

江戸時代から脈々と続く、歴史的な連続性によってハンディをうまくいなし、利用しながら生活をしてきました。

農業だけではなく、農山村を補完するような林業がこの町を守ってきて、そして今は観光業が、目黒を支えています。

それが目黒らしさであり、これからはそれを守り伝えていく必要があります。森や里は地域の共有財産なので、地域みんなで守っていく仕組みが必要です」

目黒を目黒たらしめるために、農業を支えていく必要があり、他の業もやっていかなければいけないのだと語る亀ちゃんの話は、今限界集落と呼ばれる森の国、目黒に再び元気を取り戻すために動く、水際のロッジのスタッフに大きな問いを投げかけてくれた。

ライター/井上美羽